さける花はちらずして、つぼめる花のかれたる。をいたる母はとゞまりて、わかきこはさりぬ。なさけなかりける、無常かな無常かな。(上野殿母尼御前御返事 平成御書1512㌻)

 日蓮正宗の総本山、大石寺の開基檀那南条時光殿の母尼御前へのお手紙である。時光の弟にあたる五郎が若くして亡くなった。その四十九日忌の追善として、母尼が銭貨2結及び白米1駄・芋1駄などをお届けした。
 美しく咲いた花びらが、やがて散っていくのは自然のことわりであるが、つぼみがのままで、枯れていくのは、何とも痛々しく哀れだ。老いた母が残され、これから青春期を謳歌する若者が先に逝ってしまった。これほど、母親にとって情けなく寂しいことはない。その母尼御前の切ない心を、少しでも癒やそうと、文を綴られた大聖人であった。
 肉親の死という場面に直面して、悲しまない人はいない。まして若い人が先ならば、悲しみはいっそう深くなる。でも、生死の二法を説く仏法を信ずる人は、知らず知らずの内に、その時の心構えを積み重ねているものである。三世を貫く生命観から、今の私たちの存在を説くのが仏法である。死者への悲しみは悲しみとして、時の解決に心を委ねる部分もあるが、我が命を全うしようとの気力を振るってこそ、まことの追善供養となる。
 大聖人はこの御書に「同じ妙法蓮華経の種を心にはらませ給ひなば、同じ妙法蓮華経の国へ生まれさせ給ふべし」(同一五〇九㌻)とも仰せられた。
 同じ妙法を唱えて生きた人生であれば、旅立ちに違いはあれ、宿縁は来世も続くことを信じよう。

(平成26年7月1日公開)