熊本地震に想う
住職 榎木境道

 東日本大地震から僅か5年、去る4月14日の前震・同16日の本震を中心に発生した熊本地震は、熊本県・大分県方面に多大な被害をもたらした。余震もすでに1000回を優に越え、回数は次第に減ってきているものの、被災者が本当に心休まる日はいつのことか。
 近い将来、襲って来るであろうとされる東南海・南海地震、それに首都直下型地震も想定されている。圏内にいる我々にとって、熊本地震は他人事ではなく、その前触れのようにも感じられた。
 阪神淡路大震災から東日本大震災を経て、世間ではボランティア活動が活発になり、この度の熊本地震でも若い人を中心に活動する姿は、過去の不幸な経験を活かしつつ、まことに貴いことである。ところが政府を中心とした行政上の対応は、過去の経験をどれほど活かせているのか、いささか心もとない。政府の対応と地方の行政組織の動きがちぐはぐだったり、せっかくの支援物資も山積みのまま、必要としている被災者の手許に渡らない様子も報道されていた。方法を変えれば、不可能が可能になるケースも多々あったのではなかろうか。
 日本有史以来の人為的大事故となった福島原発の処理が、あれほど手間取っているにもかかわらず、今回これほどの地震があっても、原子力行政の見直しをしないのは不思議である。

 5月5日朝日新聞紙上に載った「覚悟のいる『あきらめ』」(佐伯啓思)には、現代文明が本来、地震などの自然鳴動に耐えられるはずもないのに、どこかであきらめて、道路や高層ビルをどんどん造ってきた。とりわけ日本列島は不安定な岩盤の上にあり、来るべき不幸な事態がなるべく遠く、最小限であれと祈るのみで「きたらきたで仕方なし」とあきらめている本音を突いている。そして「幸福を物的な富の増大に委ねることの虚しさを知り、そして人の生も自然の手に委ねられた偶然の賜物」であることを知った上で、「あきらめること」の意義を説いている。
 世間の学問をしてきた人が、人間と自然現象を比較して、人間の非力さを指摘するのは当然だが、ここに人間が救われる道は示されていない。人類の歴史もまさに「偶然の賜物」の上に築かれ、今の我々がたまたま存在してきたことになる。帰するところ我々は自然に支配される人類であり人間であるという見方であるから、来るべき地震にどう対処すれば良いのか、その選択肢は防災などに限られてしまう。
 自然現象だけを対象に観るならば、大自然の変動には善悪もなければ幸不幸もない。地震も津波も起きて当然である。ところがそこに人間の存在・活動を合わせた時に、様々な評価が生まれ、恐怖や不幸、絶望さえ感じることになる。津波の起きやすい海岸に、便利だから都合が良いからと、市街地も造れば原発も造ってきた。それが大自然の僅かな変動によって多数の人が津波の犠牲となり、原発の処理にも右往左往しなければならなくなった。衆生は自然界から恩恵も受ければ、不幸も甘受しなければならない存在であるのを忘れてはならないだろう。
 ここに至って、大地震等に対する我々の発想を転換しなくてはならない。大自然の変動が我々に幸不幸をもたらすのではなく、我々衆生の心の善悪や価値観の置き所によって、大自然からの働きかけも、変わってくるという捉え方である。救いを見出すのであれば、主体はどこまでも我々衆生の心におかなくてはならない。そこに、法華経に基づく依正不二(えしょうふに)の法門がある。その意味するところ、人と国土世間(大自然)とは常に一体であり、人の心が正しく清ければ、国土世間も平穏を保ち続ける存在となる。反対に現代人がこれからも、快適さ・便利さ・優越感等々を追求して、五欲の趣くままに歩んでいくのであれば、これまで以上の大きな不幸に見舞われることを覚悟しなくてはならない。
 七百数十年前、日蓮大聖人が『立正安国論』をもって幕府を諫暁されたのがこの教えであり、念仏等の謗法(ほうぼう)を廃し、唯(ただ)一つの一乗法である三大秘法への帰依を説かれた。羅針盤の無い現代の世の中にも、大いなる示唆を与え下さっている。
 大聖人は「人にものを施する人は、人の色をまし、力をそえ、いのちをつぐなり。」(平新751・)と仰せである。被災された方への真心の支援は、勇気と生きる力と、共に歩もうという連帯感をもたらす。この度、護国寺支部として義援金を募ったところ、多数の方が協力・参加して下さいました。誌面をお借りして御礼を申し上げます。

(2016年6月記 同年9月公開)
鴦掘摩羅(おうくつまら)と鬼子母神(きしもじん)の話
住職 榎木境道

 少年たちのいじめから来る暴行・殺人や少年少女の誘拐事件、ひいては親子の関係にも痛ましい現実が及んでいます。
 現在のような世相に遭遇してみると、仏典にある説話の中身が改めて思い起こされます。そこには人間個々に潜む心の暗闇が様々に描かれているのですが、御書に「鴦掘摩羅(おうくつまら)は摩尼跋陀(まにばっだ)が教へに随って999人の指をきり、結句(けっく)、母並びに仏をがいせんとぎす」(顕謗法抄・284㌻)とある鴦掘摩羅(おうくつまら)の話もその一つです。
 「舎衛国の宰相の家に生まれた鴦掘摩羅は、無悩と名づけられた。長じて立派な百人力の体格を持ち、その上に家柄の良さもあり人々の目を引いていたが、教育を受けるため、とある有名な多聞博識のバラモン摩尼跋陀(まにばっだ)に預けられた。
 さて摩尼跋陀が留守の間に、その妻が無悩に愛欲の念を懐いて言い寄ってきた。無悩はむしろその不義を諭し、正直で冷静に対応したのである。ところがこの妻は逆恨みして、自らの衣装を切り裂くなどして無悩のことを悪者に仕立て上げようと、帰って来た夫の摩尼跋陀(まにばっだ)に讒言したのである。
 摩尼跋陀は無悩を恨んで仕返しを考えた。そこで摩尼跋陀の知る秘法を教えてやろうと偽り、梵天に生まれるためには七日の間に、千人の人を殺さねばならないと無悩に説いた。さらに殺すごとにその一指を切り取り、それをもって鬘(かつら)を作るように教えた。聡明な無悩は信じなかったが、しかし摩尼跋陀が刀を突き立てて呪文を唱えると、無悩は催眠術にかかったようにその刀を持って町に出た。そして会う人ごとに斬りつけ、指を集めていったのである。人々は無悩を鴦掘摩羅(おうくつまら)(指鬘外道)と呼んで恐れた。
 こうして七日が過ぎて、無悩は999人の指を集めたが、最後の一人がなかなか見つからない。そこで自分の母を殺害してその指をもって滿数にしようと考えた。無悩のことを知った釈尊は、教化しようとその前に姿を現す。無悩は釈尊を見ると、この覚りすました僧こそ、母の替わりに殺してやろうと思い刀を構えた。ところが近寄ろうとしても釈尊との間は少しも縮まらない。焦っている無悩に対して釈尊は述べた。「私は自在を得ているので汝から危害を受けることはない。しかし汝は今悪師に従って良心を顛倒(てんどう)し、昼夜といわず悪業を造っているので自在が得られないだ」と。
 諭された無悩は、ようやく自らの邪心に気づき、悔い返して、釈尊の弟子になることを誓った」(賢愚経取意)
 教えが間違っていると、どんなに勝れた人でも誤った道へ入ってしまうことに譬えたものです。話の内容は誇張されていても、釈尊の時代に、鴦掘摩羅のような者がいたゆえにできた説話です。現代も変わらない世の中である事が実感されます。

 もう一つ、御本尊の相貌に示されている、鬼子母神にかかわる説話を紹介しましょう。
 「鬼子母は王舎城に近い山に住んで、歓喜母とも呼ばれるほど非常に美しい容姿をしていた。ところが自らは500人の子があるにもかかわらず、夜な夜な人の子を捕まえては食べてしまう性癖があった。困った王舎城の人は釈尊に救いを乞うたところ、釈尊は鬼子母のいない間に、その500人の末子一人を連れ去った。
 帰ってきた鬼子母は最も可愛いがる我が子がいないことを知って、痛恨し悲泣した。人に勧められるまま釈尊の処へやってくると、釈尊は『汝には500人も子どもがいるのであれば、一人くらいいなくなっても、悲しまなくて良かろう』と話しかけた。鬼子母としてはそう言われても、決して納得できないし悲しみが収まるわけもない。そこで釈尊は、『500人もいる汝の子でさえ、一人いなくなればそれほど悲しいのだ。まして世間は、一人二人しかいない親ばかりだ。その子を汝がさらってしまえば、親はどれほど悲しむであろう』と諭され、鬼子母は初めて自らの罪障の深さを知った」と。
 人の痛みはわからなくても、自分のことだけは敏感な人が多い世の中です。鬼子母のような性癖ある人が、非常に増えているのではないかと思うのです。
 ところで『日女御前御返事』(御書1231㌻)には、鬼子母のことを「鬼のならひとして人を食す」(取意)とありますが、『経王殿御返事』には、
 「南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかなる病さはりをなすべきや。鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり」(御書685㌻)
と仰せです。鬼子母は妙法に帰依したことで、正法の行者を守護する善神の命に変わったのです。
 末法濁悪の世の中、これまで無かったような事件が次々に起こっていますが、この時こそ正法が流布する時ととらえましょう。この世を末法濁悪世とするか、広宣流布の仏国土にするかは、私達の行動次第です。
 我が使命を自覚していっそう折伏に邁進しましょう。

(平成28年4月 公開)
家の宗教と個人の信仰
住職 榎木境道

 日本の家庭には、昔と比べて仏壇がある家が少なくなっています。正確な統計が出ているわけではありませんが、核家族化が進み、アパートやマンション・公団が増えるに連れ、一軒の家の間取りも狭められてきているということが当然考えられます。こういう状況からすれば、核家族化によって所帯数は増加しても、仏壇を備える家庭の比率が減っていることは容易に想像がつきます。
 宗旨の勝劣はともかくとして、家の中に仏間・仏壇があることは、家族の精神的支柱を確立させる点で、その一家にとっても大きな意味を持つのではないでしょうか。御書にも「家に讃教の勤めあれば七難必ず退散せん」(御書四六四・)との伝教大師の文が引用されています。
 しかし、正宗の信徒であって、若い人が結婚をして分家はしても、御本尊を御安置しない例も見受けられますが、自分たちの家庭を築くということをどれほど真剣に考えているのか、その点で大変残念に思います。夫婦喧嘩があって、双方歩み寄る点が見出せない場合でも、御本尊をお迎えした家であれば、それぞれが御本尊に向かい勤行唱題するなかで、自ら反省することが出来ます。
 もちろん子どもが出来て育っていく課程でも、御本尊が御安置されている家庭と、そうでない家庭とでは、子どもの精神形成の上で大きな違いが出てくるはずです。両親が毎日真剣に勤行する姿を見れば、子どもは、親よりも勝れて貴い存在が有ることを、肌で感じ取ることが出来るからです。
しかし一方で、仏壇を備えるのを「家の宗教」としか考えない風潮もあります。これは世間一般の人に見られる傾向ですが、このように捉える人には、仏壇は本家だけにあれば良いという考えに陥りやすくなります。すると信仰そのものも、家を嗣ぐ家長なり長男に責任があるといって任せてしまうのです。挙げ句には、仏壇は先祖を祀る為にあるのであって、その中に安置される本尊は、先祖を守ってくれる存在にしか映らなくなります。こうなるともはや仏様(法)よりも先祖の方が中心で、本末転倒した考え方になってしまうのです。
 世間一般に、このように考える人が多い風潮というのは、江戸時代に持てはやされた儒教の影響が、いまだに根強く残っているものと考えられます。儒教は先祖を祀り、子孫を絶やさないことを大切に考えます。それと、日本で広まり、今日まで定着してきた仏教がミックスした形で、「家の宗教」という、今日の風潮を生み出しているのではないでしょうか。
 日本人の宗教オンチについて、欧米人から不審がられる話を聞きます。「貴方の宗教は何ですか」と聞かれても、はっきり答えられないというのが日本人の特徴と言われています。仏壇があるから「仏教です」「○○宗です」と、答えはしても、真相は「先祖崇拝宗」といったところでしょうか。
 信仰は本来個人々々に持たれ、その人の生涯の糧になってこそ本当の意義が発揮されます。それが先祖の祭祀専門にすり替えられてしまっている誤りに、世の人々にも早く気づいてほしいものです。

 ただし最近の世の中の傾向として、西洋の人々を模した個人主義が横行して、それがこれまでの家中心という、日本古来の習慣を脅かしつつあるように思えるのです。これも将来に向けて、真剣に考えなければならない問題だと思います。
 西洋人は早くから個々の自由を尊重する伝統がありました。そこで個人主義といっても、独善とか排他的とは意味の違う、自律性とか自己に責任を持つという意味の個人主義を培ってきました。これは良く評価されるべき美徳でありましょう。ところが現代日本に横行する個人主義というのは、どちらかと云えば利己主義的な要素が多い個人主義なのです。家庭や職場、隣近所の付き合いの上でも、昔と比べると閉鎖的で、協調性に欠ける人が多くなったと指摘されて久しい感があります。互いに潤いを感じることが少ないということでしょう。理由として考えられることは、やはり西洋文明をうわべだけ真似してきた明治以来のしわ寄せが、ゆがんだ個人主義を横行させる結果となっているのではないでしょうか。
 少子化の原因も帰するところ、適齢期の夫婦が子作り・子育をした際の束縛を避けたいという、消極的意思の表れで無ければ良いのですが。
 信仰の有るべき姿という視点に戻りますが、儒教の影響による「家の宗教」的な先祖崇拝宗でも困ります。かといって、西洋かぶれのゆがんだ個人主義からはオウム教団のような、あるいは最近の、テロに結びつくような独善的で、人の犠牲を何とも思わない宗教しか生まれてこないでしょう。
 宗祖日蓮大聖人は檀越(だんのつ)に対して、「御みやづかいを法華経とおぼしめせ」(平成一二二〇頁)という、世法と仏法が両立すべき御指南をされています。あるいは、「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽(じじゅほうらく)にあらずや」(同九九一頁)という御文にも見られますように、日常生活の中にそのまま信心を生かしていくべき御教示をされています。
 我々の人生に苦楽は付き物であります。辛い時も悲しい時も、嬉しい時も御本尊の前で妙法を唱えて、歩んでいく信心の歓びを、世の人々に広く伝える折伏を、今こそ行じていきましょう。

(平成27年9月 公開)
現代の他国侵逼難と自界叛逆難
住職 榎木境道

 今を去る七五四年前の文応元(一二六〇)年七月十六日、日蓮大聖人は幕府の要人・宿屋左衛門入道を通じて、政治の最高権力者であった最明寺入道北条時頼に『立正安国論』を奏呈して、国家諫暁をされました。
 『安国論』には、もしも日本国に、念仏等の誤った教えがこのままはびこったままであるならば、必ず他国侵逼難と自界叛逆難が起こることを予証しています。そして実際に他国侵逼難は文永十一年と弘安四年の二度あり、蒙古による大軍船が襲来してきました。また自界叛逆難は文永九年におきた二月騒動、すなわち北条氏一門において、執権時宗と異腹兄である時輔との間で戦争となり、時輔一派が粛清されるという大事件が起きました。
 「三世を知るを聖人という」(平成八六七㌻)と自ら仰せではありますが、当然ながらこれほどの大事件について、あらかじめ予言した人物を歴史上に訪ねても、他にはいません。日蓮大聖人の稀有なる御境界について、改めて感じ入るものであります。

 ところで、他国侵逼難と自界叛逆難が現実となったのは、果たして大聖人の時代だけだったと考えて良いのでしょうか。現代・未来には起こらないのでしょうか。
 さにあらず、現代も誤った教えが多い世の中であることは、大聖人の時代と変わりありません。三大秘法という正法に対する関心がまだまだ足りない世の中であること、それも我々の折伏精進がまだまだ至っていないと反省しなければなりません。と同時に、現代の世相を見るに、もちろん日本を中心にものごとを捉えていくことは必要ですが、一方でグローバル化した世の中ですから、世界的な視野に立ってものごとを見ていくことも大切です。
 そこにおいて、今年になってからでも、ウクライナ共和国をめぐる西欧とロシアのせめぎ合いがありました。南シナ海と東シナ海では、中国の拡張主義によって、ヴェトナムやフィリピン、そして尖閣をめぐっての日本との摩擦が頻繁に起こり、近い将来どのようになっていくのか、皆目分かりません。とりわけ日本では、今騒がれている集団的自衛権の是非は、国論を二分しているようです。果たして戦争の為に抑止力になるのかと言えば、むしろ巻き込まれてしまうケースの方が多くなるという見方が多いようです。思うに、今においてもしもアメリカという国が存在しないとしたら、日本は集団的自衛権を論議することもなく、専守防衛を堅持し続けるでしょう。米国があるばかりに、安倍総理の目も右横に向かざるを得ないのです。朝鮮半島の不安定化にしても、また中国の軍事的台頭にしても、これからの日本を取り巻く国際情勢、軍事情勢は予断を許さないものがあります。とりわけエネルギーをめぐる力の駆け引きで、摩擦は起きやすくなります。これを他国侵逼難の怖れと見て、誤りがあるでしょうか。
 次に、自界叛逆難については、単純に同士討ち、内紛がはじまると言うよりは、これまで安定してきたものが、徐々に崩壊していく現象と捉えれば、より現実的な意味が反映されるのではないかと思います。つまり我が国の、少子化現象や老人国化することによる税収制度・社会保証制度の不安定化、そして日本という文化の液状化が挙げられます。
 とりわけ日本文化については、これまで日本という国に根付いてきた生活習慣や道徳、宗教観念のことを指してそう言いたいのです。これらがあったことにより、国民は一定の安定・安心を得て生活してきました。
 例えば三世代が同じ屋根の下で過ごしてきた昔の日本には、それなりに家族・親族の助け合いが密接であったでしょう。道徳については、親や先生、年長者に対する報恩・敬愛精神、あるいは社会や職場への奉公精神が昔は強かったはずですが、そうしたものの希薄化が例として挙げられます。また宗教観念については、亡き親・先祖を回向する心を失いつつあるのはもとより、見えざるものに対して畏敬の念を懐く心も、現代人は次第に希薄になっているのではないでしょうか。このような現代人の醒めた目をもってみれば、世のあらゆる存在は今限りのもので、そこに因縁・因果の道理を当てはめ、自分が存在する意義を、深く考えてみようという気持ちすら起こってこないのではないでしょうか。

 このように、従来のあり方に比べて、現代起きている変化はすべて劣った方向に向かっているとは言い切れませんが、しかし大事な精神文化として、守るべきものをも徐々に失っている現実があるのは確かでしょう。それは、自界叛逆難と考えられないでしょうか。大聖人は、
  悪世末法の時、三毒強盛の悪人等集まりて(九〇五㌻)
と、末法の人は、三毒強盛の悪人であると仰せです。貪瞋癡を三毒といいますが、貪る心と、瞋る心、ものごとの道理が分からない愚癡の心のことです。三毒は人の善心を害する最も根本的な煩悩とされ、地獄・餓鬼・畜生の境界であると大聖人は説かれています。
 そのような我々末法の衆生が、平穏な世の中を築くことはまことに至難の業というべきです。それゆえにこそ『立正安国論』に籠められた、
  唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ(二五〇)
との御聖訓が輝きを増すのです。現代においても、より多くの方に大聖人の三大秘法を知っていただきたいと思います。

(平成26年7月1日 公開)
未来に伝えられる大石寺御影堂 – その歴史を探る
住職 榎木境道

 立正安国論正義顕揚七五〇年の記念事業として、大改修工事が行われてきた総本山大石寺御影堂が、恙なく昨年末に竣工し、四六会にも及ぶ慶祝記念法要が奉修されたのも、まだ記憶に新しいところです。
 御影堂は身延を離山された日興上人が、大石寺を開創された時に、御内仏様を御安置した六壷が建てられ、続いて建立されたと考えられる堂宇です。御影堂に奉安された大聖人御影は、日興上人によって身延山で造立されていたことが明らかですから、その御影を奉安するための御影堂もまた、大石寺開創の頃から建立されていたことが容易に推定されます。
 日興上人は御入滅に当たって、御堂を大聖人墓所とともに、日目上人に管領を命ぜられました(日興跡条々事)。御堂とは御影堂の略称です。
 その後の変遷は定かではありませんが、元中五(一三八八)年、以前宰相阿闍梨日郷師が大石寺を退出する時に、保田に持ち去った大聖人御影について、第六世日時上人は返還を求めています。この頃、大石寺では御影堂を造立していることが、他門の文献にあります。
 第十二世日鎮上人の大永二(一五二二)年には、本堂・総門などとともに、御影堂が新たに建立され、本寺としての格式を整えています。この時は、御影堂と本堂が並んで建てられていました(日主上人大石寺絵図)。
しかしこの頃は戦国時代で、駿河の地は今川氏の所領とはいえ、甲斐の武田、相模の北条を含めた三勢力が、覇権を競って入り乱れていました。こうした状況下、永禄十二(一五六九)年二月七日、三勢力の一角である武田信玄の軍勢により、大石寺の諸堂が焼かれています。御影堂もこの時、被災したことが考えられます。

 江戸時代になると、阿波徳島の藩主・公の夫人であるが、第十七世日精上人に深く帰依をされました。そこで日精上人が登座された年の寛永九(一六三二)年に、御影堂を建立寄進されています。この年は前年に、大石寺に大きな火災があり諸堂が焼失したので、復興を意図したものでした。
 この時建立された御影堂の建物こそは、後の修復や規模の拡大はあるものの、原形において、現在我々の見る建物と考えられます。またこの時、大石寺近辺の信徒を中心に、延べ七千二百十三人の人が、建立作業に加わった記録があります。この事も御影堂の歴史として忘れられない事実です。
 三年後の寛永十二年には、御影堂内に今ある、がえられ、同十五年には御影堂前の二天門も建立されました。二天とは、諸天の代表として大日天王・大月天王のことで、御影堂の御本尊・御影を守護する役割とされています。
延宝七(一六七九)年二月十三日、日精上人はそれまで御影堂に御安置されていたと思われる、本門戒壇の大御本尊を御宝蔵にお納め申し上げ、替わりに新たな板御本尊を造立されました。現在御影様の後ろにまします御本尊です。
 第二十二世日俊上人の御代には、御影堂への参道が、両わきの石垣の施工とともに整備されました。四(一六八七)年のことで、現在でも御影堂の参詣は、石段を上がり、二天門をくぐって進みますが、高低差のある参道は整備が必要で、しかも大がかりな工事を要したことでしょう。

次に、第二十四世日永上人の御代である元禄十二(一六九九)年には、御影堂に大修築が加えられました。この時の工事は、元禄十年に関東大地震があり、御影堂もかなり被害を受けて破損したので、修繕のための工事であったようです。翌年には落慶法要が営まれ、細草檀林所化による論議式も行われています。
 その後、御影堂をめぐる大きな動きはなく、明治年間には第五十六世日応上人が、福島県にいた宮大工・青木守高氏に調査せしめたところ、腐朽が著しいことが分かりました。日応上人は大営繕を決意され、明治三十(一八九七)年十月、営繕事務所を設置、屋根も従来のきから、銅板にき替える事業が行われました。費用も当初の見積もり一万八千円から、造作新調箇所の追加や諸物価の高騰で、最終的には三万五千円となり、日応上人は愛知・石川・京都・大阪・兵庫・福岡の各地を巡教なされ、御供養の勧募に努められました。こうして明治三十五(一九〇二)年四月、ようやく営繕が成り、落慶法要が奉修されたのです。
 平成の現在、大修復工事の行われている御影堂は、木部に伝統的なを採用するなど、江戸時代初期の建築方法を再現すべく最善の努力が重ねられました。
以上のように、大石寺御影堂は宗門発祥の時代から、御影様をご安置申し上げ、大聖人がましますごとくの礼をとって、時々の御法主上人が守護されてきた中心堂宇です。

(平成26年3月 公開)
新年のお祝いあれこれ
住職 榎木境道

 新年明けましておめでとうございます。
年齢と同じ数の新年を迎えても雑煮(ぞうに)やおせち料理が食前を飾り、お年玉が行き交う様子は感慨深いものがあります。とは言え、近年お節料理の中身はといえば、かなり変化も見られるようになりましたが……。
 お節料理の起源を探ると、ハレ(非日常の日)をお祝いするのと、主婦を休ませるために、日持ちの長い献立を重箱に詰め合わせたという、主に二つの意味があったようです。日持ちについては、冷蔵庫のある今日では余り意味は為さなくなりました。やはりハレの日として、お祝い気分に浸りたいというのが、どのお宅でも強いのではないかと思います。
 世界中から取り寄せた食物が有り余る今日、お節の中身はそれほど贅沢には感じられなくなりましたが、私たちの子どものころは、年に一度しか口にできないものが随分あったように思います。蒲鉾(かまぼこ)でも、紅白がお祝いのしるしであるのはもちろん、さらに半円形で日の出をかたどり新しい門出を祝う意味があるそうです。でも魚のすり身を練って作ることからすれば、本来の保存食品を、巧みにお祝いの品に取り入れてしまった先祖の人々の智恵が感じられます。
お年玉は、物の本によればそ年神の魂を「としだま(年魂)」と呼び、家長なり主人を通して、子どもや使用人に授けられたという起源があるそうです。だからお年玉はその年の活力を戴くことであるそうな。鏡餅は反対に年の神へのお供えであるのは言うまでもありません。
 このように、新年のしきたりは、たとえお節料理の一品一品をとってみても、そこに新しい年を祝う意味が込められ、先人が合理的に考え出した風俗習慣の中にも、幸せを願う敬虔な信仰心がうかがえるのです。

 では日蓮正宗の教えのなかで、これ等の行事・習慣をどうとらえていくべきかということですが、仏教の布教の上で随方毘尼(ずいほうびに)と呼ばれる法門があります。仏の法に違わない限りにおいて、その土地や時代における風俗習慣等に随うべきことを、戒の一つとして説かれた教えです。この法門にのっとれば、新年を迎える様々な習俗も、日本古来の伝統として、伝えていくべきは当然です。
 ただ、年の神という漠然とした信仰の対象については、それらを個々に祀ることは、憚(はばか)らなくてはなりません。この点について日蓮大聖人の『月水御書』を拝すれば、
「この国の習ひとして、仏菩薩の垂迹不思議に経論にあい似ぬ事も多く侍る」(平成新編御書三〇四㌻)
とあります。天照大神・八幡大菩薩などは本来仏菩薩の垂迹(仮の姿)であっても、経論に説かれたのとは似ていない場合が多々ある、との仰せです。それはこの国の風俗等に合わせて、仏菩薩が神として出現したからであり、「仏法の中に随方毘尼と申す戒の法門はに当たれり」と、続けられています。『諌暁八幡抄』等の御書にも、八幡大菩薩は釈尊の垂迹であるという御法門を説かれています。しかしだからと言って、八幡大菩薩等をそのまま拝むようにとの仰せではありません。日蓮大聖人様がなぜ十界互具の御本尊を顕されたのか、その意義をよく拝すべきです。『日女御前御返事』に、
「日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神々(中略)此等の仏・菩薩・大聖等、総じて序品列座の二界・八番の雑衆等、一人ももれず此の御本尊の中に住し給ひ、妙法五字の光明にてらされて本有(ほんぬ)の尊形(そんぎょう)となる。是を本尊とは申すなり」(同一三八七㌻)
と説かれ、天照大神・八幡等の日本国に祀られてきた諸々の神々も、一切が十界互具・一念三千の御本尊に帰して、妙法五字の光明に照らされたところに、本来本有の仏の命を顕わすとの仰せです。
 したがって、どれほど尊い仏菩薩・諸天善神といえど、妙法蓮華経を離れたところに、衆生を守護したり、利益するはたらきが顕れることはあり得ません。

 日本古来から崇められてきた神々といえども、法華経の信仰の上からは、個々に祀ることはできない理由をあらかた述べました。しかし、あらゆる仏神のはたらきは、事の一念三千の当体である御本尊に具わるのであれば、御本尊を御安置すれば、他の仏菩薩や神々を祀る必要は無いということです。
 新年を祝うという、日本古来の行事を行う場合でも、本宗では御本尊を中心に鏡餅をお供えし、初のお雑煮も具え、御造酒(おみき)も御本尊にお供えしたものを戴きます。お年玉も、大晦日に御本尊にお供え申し上げれば、元旦にはそのまま妙法の意義の具わったお年玉が、子どもや孫の手に渡ることでしょう。

平成25年12月 公開
紫宸殿と申状
住職 榎木境道

 日蓮正宗の年間一大行事である、御会式の季節を迎えています。御会式は宗祖日蓮大聖人の御命日を期して奉修されますが、意義においては、日蓮大聖人が法華経寿量品に説かれる末法の仏様として三世常住される、その御境界をお祝いする儀式です。本宗の御会式には『立正安国論』の奉読とともに、歴代上人の諫暁の書である御申状を奉読し、広布への誓いを新たにするのが習わしです。
 数年前になりますが、所用で京都に出る機会があり、ちょうど一般公開していた京都御所を見学してきました。その昔、日興・日目両上人をはじめ、本宗上古の歴代上人が申状を奏し、国主諫暁された場面などを想起し思いをめぐらしました。
 御所の中心は紫宸殿です。ここでは即位・朝貢・節会・元服はもとより、読経会・講経なども行われていたそうです。
 大聖人が御誕生された前年に承久の変があり、執権北条義時が鎌倉より京に攻め上りました。これに対し朝廷では紫宸殿において、真言密教による十五檀の秘法を修して戦勝祈願したものの、鎌倉武士に敗れ三上皇は配流されました。大聖人はこの事実を引かれ、どんな祈りも持つ法が誤っていれば、叶うことはないと御書の各処に仰せです。
 そのような大聖人の教えを承けて、門下では宗祖晩年の頃から、日興上人・日目上人により、幕府への諫暁とともに、朝廷への諫暁もたびたびなされてきました。実際諫暁の場所がどこで行われたかと言えば、第五世日行上人の時、紫宸殿の前庭白砂(しらす)の上であったということが、第九世日有上人聞書(ききがき)に見られます。日興上人・日目上人の時もおそらく同様であったのでしょう。
 私は紫宸殿の前まで来た時にこのことを思い起こし、入口上部に掛けられた「紫宸殿」とある額と、その前庭に敷かれた白砂を見て、しばしの感動を覚えました。日興上人も日目上人も、そして日行上人もこの位置で、御簾(みす)に竜顔(りゅがん・天子のお顔)を隠された天皇に向かわれ、申状を朗々と捧読されたのかと。
 入口階段下の位置から紫宸殿内部を臨むと、御簾の向こうに玉座がうかがえます。白砂よりやや離れてはいるものの、天皇まします両わきに居並ぶ臣下はしわぶきひとつせず、聞こえるのは立木の揺らぎと鳥のさえずりのみ、申状捧読の声は、玉座まで十分届いたであろうと想像しました。
 先の日有上人の聞書とは、第五世日行上人による暦応五(一三四二)年の天奏に触れられた部分です。白砂にひざまずかれた日行上人が申状を読み上げると、紫宸殿の御簾の中に天皇は進まれ、まじまじと日行上人を御覧になり、そして少しお顔をそむけられたとあります。日行上人はどうしたものかと奏者(伝奏役)を見ると、袈裟を脱ぎなさいと言う。そこで日行上人は白砂の上に扇を広げ、その上に袈裟を置いて申状を奏したところ、天皇は真っ直ぐに向かわれ、聞いて下さったということです。竜顔をそむけられた理由については、天皇御自身は本来十善の帝王と言われますが、仏子である僧侶にあい対した時には九善の位に下がり、僧侶を十善の位に引揚げるのです。ゆえに九善の天皇が十善の僧侶を上から見下ろすには憚りがあると感じられたゆえに、袈裟を外させたと、三十一世日因上人の解説があります(取意)。

こうして紫宸殿を舞台に、宗門上古の歴代上人は天奏を生涯の大事として行じてきました。時に生命に及ぶ結末をも覚悟しなくてはならない、不自惜身命の実践でした。
 ところで大石寺および京都要法寺には「紫宸殿の御本尊」と称されれる、大聖人御真筆の御本尊が伝えられています。
 要法寺では同山二十一代円智院日性師が仙洞御所(上皇の御所)で後陽成院へ外書(仏教以外の書)を講じた時に奉安したという、大聖人御本尊を紫宸殿の御本尊と称しています。大石寺では、弘安三年三月日の御本尊について、紫宸殿の御本尊と称されています。『富士大石寺明細誌』には、
「伝に云く広布の時至りて鎮護国家の為に禁裏の叡覧に入れ奉るべき本尊なり云々」
とあります。天皇帰依の折りに紫宸殿に奉掲され、天皇が直拝されるべき御本尊との意味です。なお六十七世日顕上人は、本来は大聖人より日興上人へ師資伝授されるという意味で「師資伝の御本尊」であったのが、その後転化して「紫宸殿の御本尊」と称されるようになったと示されています。
 こうした言い伝えも、何れは天皇の帰依を実現したいという、本宗上古の人々の悲願があった証しでしょう。
  「代々を経て 思いをつむぞ冨士の根の 
             煙よおよべ雲の上まで」
第三祖日目上人が最後の天奏途上、美濃国垂井の宿で遺された辞世の句で、ここにも富士山麓の三大秘法が、雲上人(朝廷紫宸殿)に及ぶことを悲願とした御意が拝せられます。
 宗門上代の歴史と紫宸殿には、語り尽くせない様々な結びつきがあるようです。

平成25年11月 公開
真の幸福を築くために
住職 榎木境道

 東日本大震災以降、人々の幸福感も変わってきたと言われています。と言うより、どのようなことをもって幸福と言えるのか、そのあたりの明確な目標なり指標のようなものが、失われてしまったのが現在の世の中ではないでしょうか。
 かつては曲がりなりにも社会人として就業して、その中で家庭を築き余暇を楽しめる程度でも、ほのぼのとした幸福感があり、理想的な人生観の一つとして定着していた時代があったようですが、今はそれさえ思うに任せず、厚い壁に突き当たっている人がどれほどいるでしょう。
 東日本大震災で、あっという間に肉親を失ってしまった人たち。もちろん津波にのまれて帰らざる人となった方には、死の瞬間がどれほど怖く苦しかったことか。一方で遺された方も、瞬時に肉親を失った心の痛みはたとえようも無く、その辛さを生涯忘れることはできないでしょう。
 ある識者が本に書いていますが、人は必ず死を迎えなければならないが、災害や事故死、或いは急性疾患などによる突然死は、家族へ与えるダメージはとりわけ大きなものとなる。ところが不治の病でも、癌に罹った場合の死であれば、少なくとも一ヶ月の有余はあるので、その間に本人はやり残したことが出来るし、家族も看病する間に心の準備ができるから、いざという時のショックは、突然死よりずっと緩やかなものとなるという指摘です。
 なるほど、これは現実に即した、合理的な捉え方なのかと思います。終末医療にしても、これまでは可能な限りこの世に生き続けさせることが使命のように考えられてきましたが、「マカロニ症候群」と言われる、管だらけの姿で最後を迎えるより、できるだけ自然なままで臨終を迎えさせる方が、人間の尊厳という観点からも、重視されるようになってきた時代です。
 このように、誰しもに死は必ずやってくるという意識を、心の中に明確に持っておくことはたいへん重要で、一人ひとりが真の幸福境界を築くためにも、この意識を疎かにすることはできません。まさに日蓮大聖人が「先ず臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」(平成一四八二㌻)と御教示されていることに、一切は極まるのです。
 我が臨終を意識することは、自らの行動の限界を知ることであり(無常)、また我が命の中に、無限の可能性を開くこと(常住)でもあります。その中で得られる幸福感こそが、絶対的なものとなりうるのでありましょう。

 仏法では我々がなぜこうして存在するのかということについて、人間も動植物も、またそれらが拠り所とする環境世界の一切を含めて、「因縁所生(いんねんしょしょう)の法」と説いています。何らかの因と縁が仮に和合することによって生じ、その和合が解ければ滅(死)を迎えます。人間でいえば、地水火風空の五大という要素が仮に和合して生まれ、その和合が解かれて死を迎えます。ゆえに死を迎えても、再び仮和合して再生が可能という理屈が成り立ちます。
 では、どういう力がはたらいて、仮和合があるのかと言えば、これはそれぞれに無始以来具える業力(ごうりき)があり、とりわけ過去世の業が因となり、父母を縁として世に生まれることになります。そういう我々の当体は、一言で言えば、「妙」としか言いようがありません。
 天台の釈に「妙は不可思議に名づくるなり」(平成六六八㌻)とありますが、一体何が不可思議なのでしょう。例えてみれば法華経方便品に説かれる十如是は、如是相・如是性・如是体から始まります。これはAさんもBさんも、顔の形・性格などそれぞれ違うということで、誰一人同じ個性の人はいません。仏法ではこれを差別と表現します。AさんもBさんそれぞれに、如是力、乃至作・因・縁・果・報という、各々の用きや得られる結果、そして後に及ぼす影響なども全て相違・差別がありますが、しかし如是相から如是報までの因果のはたらき、ありようは、本末究竟(ほんまつくきょう)して等しい、つまり平等なのです。
 差別の当体のままに、平等の真理を具することをもって、これを「妙」と名づけ、妙という法(真理)がある、すなわち妙法とするのです。このように我々衆生は、妙法で表現される尊い当体ですが、しかし妙法といっただけではなかなかつかみ所もないので、たとえを蓮華に借りるのです。蓮華は汚い泥水の中から、汚れのない白蓮華の花を咲かせます。我々衆生の命・心も、本来は白蓮華のように汚れがないということから、蓮華をたとえに使うのです。いわゆる妙法という蓮華が、我々のありのままの姿であり、これを普遍的真理として説いた因果倶時(ぐじ)の教えという意味で、妙法蓮華経とするのです。
 我々の体を成す地水火風空の五大は、すなわち妙法蓮華経という尊い仏の当体であるということです。しかしこの法門は、御本仏大聖人が久遠元初より所持され、末法の一切衆生を成仏に導くために、南無妙法蓮華経の御本尊に建立されました。ゆえに私たちは、大聖人の顕された御本尊に向かい、南無妙法蓮華経と唱えるときに仏の当体となるのです。
 幸福への指針を失った現代人ですが、より多くの方が真の幸福を築くために、御本尊の前に端座して、南無妙法蓮華経を唱える生活ができるよう、念願するものであります。

平成25年9月 公開
日蓮大聖人と立正安国論の周辺
住職 榎木境道

 『立正安国論』は日蓮大聖人が国家諫暁の書として著された、代表的な著述であることは広く知られています。四六駢儷体(しろくべんれいたい)という漢文の一手法が用いられ、対句により音読すると流麗な響きがあります。
 文応元年七月一六日、大聖人はこの書を幕府に奏進して、唯一の正法である法華経に帰依すべきことを説かれました、ここに至った直接の機縁は、これより三年前、正嘉元年八月二十三日を中心とする、鎌倉大地震を体験されたことによるものでした。当時の史書『吾妻鏡』にも、
 「大地震、音あり。神社仏閣一宇として全きことなし(中略)中下馬橋の辺、地裂け破れ、その中より火炎燃え出づ」(同年八月二三日条)
と、記されるほどの惨状でした。
 この頃、鎌倉に庵室を構えていた大聖人は、地震後の変わり果てた光景をまざまざと御覧になられています。しかしこれは惨状の始まりと言うべき事態でした。十一月には同規模の大地震、翌二年八月一日には大暴風、同三年の大飢饉、翌正元年の大飢饉と大疫病の流行、翌二年は四季を通じての疫病流行と続きます。まさに『立正安国論』冒頭にある、
  「牛馬巷に斃(たお)れ、骸骨(がいこつ)路に充てり。死を招くの輩既(すで)に大半に超え、之を悲しまざるの族敢へて一人も無し」
とあるのは決して誇張ではなく、現実そのままの描写でした。
 驚いた朝廷・幕府は、全国の諸大寺院に災難退治の祈祷をなさしめるも、人々の悲惨な度合いは増すばかりです。
 ここにおいて大聖人は、念仏や禅の教えに頼る当時の世相に原因があるとの思いを致され、その経証(経文上の証明)を得べく、岩本実相寺の一切経蔵に入られました。この時、実相寺・四十九院の学徒であった伯耆公(ほうきこう)こと日興上人が弟子入りを願い、久遠よりの師弟の因縁が開花したのも、むしろ自然の成り行きでした。
 こうして、三災七難の由縁を説いた諸経の文証をもとに、世に行われている邪法邪義を捨てて「実乗の一善」、即ち法華経の肝要である南無妙法蓮華経に帰依することが、世を救う唯一の道であると説いた『立正安国論』は、文応元年七月十六日、幕府の要人宿屋左衛門入道を通じ、最明寺入道北条時頼に奏進されたのでした。他の御書には大聖人が直接時頼に会われたことも記され(故最明寺入道見参御書)、安国論の内容に、時頼も非常に関心を寄せていたことをうかがわせます。

 さて『立正安国論』奏進当時、破折の対象に挙げられた念仏僧を中心に、大きな反発があり、松葉ヶ谷の法難を引き起こしています。さらに彼等は、讒言(ざんげん)を用いて北条氏の長老的存在であった極楽寺重時等を動かし、翌弘長元年五月には伊豆配流となりました。
 これで安国論奏進による騒擾(そうじょう)は、終息したかに見えましたが、御歳四十七歳の文永五年閏一月、突如として蒙古国より牒状(ちょうじょう)が到来、日本へ服属を求めてきました。いわゆる大聖人が安国論に、近い将来他国侵逼と自界叛逆の二難があることを予証してより九箇年、このことが符号したことに世上は大騒ぎとなりました。大聖人は就任したばかりの執権北条時宗をはじめ幕府首脳や鎌倉諸大寺院に十一通御書を送り、安国論の内容を再考するよう厳しく求められました。
 こうした事態の中で、大聖人の存在と安国論の内容は、日本国全体に大きくクローズアップされていったのです。
 翌文永六年には蒙古より再度牒状が届けられました。この年の末頃、大聖人様が筆写された安国論が、富木常忍有縁の中山法華経寺に残され国宝に指定されています。その奧書に、
 「此の書は徴(しるし)有る文なり。是偏に日蓮の力に非ず、法華経の真文の感応(かんのう)の致す所か」(平成新編御書四二〇㌻)
とあります。安国論の内容は、単に一個人の著述などではなく、法華経の意(こころ)を文字として顕したものであり、末法御本仏が示される世の指標であるとの深意がうかがえます。
 このように推移する中で、大聖人の教えを求める人が鎌倉を中心に、次第に増えていったことは当然想像されます。しかしそれが、極楽寺良観をはじめとする他宗の僧や、平左衛門尉頼綱等、幕府内の権力者に危機感を懐かせ、文永八年九月十二日の竜口法難を迎えるのです。
 それに続く佐渡配流は、当初は竜口での斬首をもくろんだ頼綱等が、果たせなかったことで急遽方針を転換した処断でした。
 ところで「法華経の真文」とまで仰せられた安国論の予証が、再び現実となる事態を迎えます。いわゆる配流の翌年早々、執権時宗と六波羅探題の兄時輔(ときすけ)との間に内戦が起こっています。他国侵逼難に続く自界叛逆難の現証でした。この事は、蒙古再度の来襲を恐れる幕府にとって、大聖人様への扱いを再考せざるを得なくなりました。すなわち文永十一年春に、佐渡配流赦免の決定へとつながるのです。
 鎌倉に戻られた大聖人に向かって、平頼綱は「蒙古は何時攻めて来るのか」と問うほど、すでに無視の出来ない存在でした。しかし頼綱の権力が、執権を凌ぐほど次第に強大になっていく中で、幕府は大聖人の忠告を顧みる余裕はなく、元弘三年の鎌倉幕府滅亡まで、走り続けざるを得なかったのです。

平成25年7月 公開
桜と山吹と白蓮華
住職 榎木境道

 花の季節がめぐってきました。自然界の営みに心から感謝をしたい昨今です。
 桜の美しさは素直に愛でたいものですが、しかし散り際の鮮やかさには、一層のおもむきが感じられます。散る花びらは、古代人がいた頃から、我々に様々な訴えをしてきたようです。無常観はもとよりですが、日蓮大聖人の御書にある、寒苦鳥(かんくちょう)の話を思い起こします。
 「雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて、夜明けなば栖(す)つくらんと鳴くといへども、日出でぬれば朝日のあたたかなるに眠り忘れて、又栖をつくらずして一生虚しく鳴くことをう。一切衆生も亦復是くの如し」(新池御書)
雪山とはヒマラヤのことです。夜は非常に冷たく、ここに住む寒苦鳥はブルブル震えながらも、「よし、夜が明けたら一生懸命暖かな栖(すみか)をつくろう」と固く決意するのです。ところが朝が来てポカポカした陽光がさしてくると、昨夜の寒苦もどこへやら、ウトウト居眠りをして、いつの間にかまた極寒の夜を迎えてしまいます。次の日も、またその次の日も同じことの繰り返しで、こうして一生の間、自分の栖さえつくれないのが寒苦鳥です。
 でも、本当は我々一切衆生の姿が、この寒苦鳥であることに気がつきなさいと、大聖人様は仰せられているのでしょう。冬が過ぎて春がめぐり、桜吹雪の哀れさを見て、我が身に充てはめれば、少しも油断のできない日々であることに気がつきます。

 花と言えば、山吹も可憐な花を咲かせています。
その昔、関東管領上杉氏の重臣に太田道灌なる武将がありました。五山無双の碩学といわれ、文武両道に秀でた人物でした。江戸城を築いて移る前は、我が護国寺の向かい英勝寺のある地に旧邸を構えていたということで、何となく近所合壁の親しみも感じます。
 道灌はある日狩りに出かけた際に時雨に遭い、民家で蓑を借りようとしました。ところが家から出て来たのは少女で、そこに生けられていた山吹の一枝を指さすのみ。道灌は「どうもわけが判らぬ」と、その家を辞したのですが、後に和歌を良くする人にたまたまこの話をすると、「それは古い和歌に詠まれた、山吹のことを指していたに違いない」と教えてくれました。

     七重八重 花は咲けども 山吹の
         みのひとつだに なきぞかなしき

 歌の作者は、「山吹は七重八重と、たくさんの花を咲かせるけれども、実を一つも結ばないとは、なんとも哀しいことではないか」と詠んだのです。しかし道灌に相い対した少女は、「実の」を「蓑(みの)」にかけて、「我が家には、蓑の一つも無き民家にて、あなた様のお役にはたてません」との意味を込めて、山吹を指さしたのでしょう。
 以来、道灌は教養の至らぬ我が身を恥じて、歌道をも学んだと伝えられています。

 以上は、中興の祖日寛上人『当体義抄文段』にも引用されている、熊沢蕃山が『集義和書』に書いた逸話です。
 山吹の中でも実が成らないのは、八重咲きの種類だけだそうですが、花と実(菓)との関係は、仏法では大切な因果を表す譬えに使われます。もっともこの場合、花が因で菓(このみ)が果となりますから、花が咲いても実が成らない山吹は、因果がはっきりせず、譬えとして相応しくはないでしょう。そうした点で勝れているのは、何と言っても蓮華の花となります。
 なぜ仏教で蓮華が譬えに使われるのかと言えば、花が咲くと同時に、花びらの中心には、すでに菓が成っているのです。これは妙法蓮華経に籠められた因果倶時(いんがぐじ)の意義を表すもので、これを「当体蓮華(とうたいれんげ)」といいます。また蓮華のもう一つの意義として、妙法という不可思議な法を顕わすのに、蓮華の姿を借りて、衆生が理解する手助けをするのであり、これを「譬喩蓮華(ひゆれんげ)」と言います。
 また白蓮華(びゃくれんげ)には、濁った泥水の中に清楚な花を咲かせるという、特性もあります。これは五濁悪世に住む我々衆生にも、それぞれ心に妙法という清らかな白蓮華を宿しているのです。ゆえに、法華経を信ずる者は御本尊に向かって朗々と題目を唱えることで、心中の白蓮華を大きく開き、末法濁悪の世の中にも、幸せな境界を開くことができるのです。このことを法華経には「不染世間法 如蓮華在水(ふぜんせけんほう にょれんげざいすい=世間法に染まらざること 蓮華の水に在るが如し)」と説いています。
 桜と山吹と白蓮華、それぞれの花は様々に教えを説いてくれています。それらをそのまま受け止められる、私たちの心でありたいと思います。

平成25年5月 公開