家の宗教と個人の信仰
住職 榎木境道

 日本の家庭には、昔と比べて仏壇がある家が少なくなっています。正確な統計が出ているわけではありませんが、核家族化が進み、アパートやマンション・公団が増えるに連れ、一軒の家の間取りも狭められてきているということが当然考えられます。こういう状況からすれば、核家族化によって所帯数は増加しても、仏壇を備える家庭の比率が減っていることは容易に想像がつきます。
 宗旨の勝劣はともかくとして、家の中に仏間・仏壇があることは、家族の精神的支柱を確立させる点で、その一家にとっても大きな意味を持つのではないでしょうか。御書にも「家に讃教の勤めあれば七難必ず退散せん」(御書四六四・)との伝教大師の文が引用されています。
 しかし、正宗の信徒であって、若い人が結婚をして分家はしても、御本尊を御安置しない例も見受けられますが、自分たちの家庭を築くということをどれほど真剣に考えているのか、その点で大変残念に思います。夫婦喧嘩があって、双方歩み寄る点が見出せない場合でも、御本尊をお迎えした家であれば、それぞれが御本尊に向かい勤行唱題するなかで、自ら反省することが出来ます。
 もちろん子どもが出来て育っていく課程でも、御本尊が御安置されている家庭と、そうでない家庭とでは、子どもの精神形成の上で大きな違いが出てくるはずです。両親が毎日真剣に勤行する姿を見れば、子どもは、親よりも勝れて貴い存在が有ることを、肌で感じ取ることが出来るからです。
しかし一方で、仏壇を備えるのを「家の宗教」としか考えない風潮もあります。これは世間一般の人に見られる傾向ですが、このように捉える人には、仏壇は本家だけにあれば良いという考えに陥りやすくなります。すると信仰そのものも、家を嗣ぐ家長なり長男に責任があるといって任せてしまうのです。挙げ句には、仏壇は先祖を祀る為にあるのであって、その中に安置される本尊は、先祖を守ってくれる存在にしか映らなくなります。こうなるともはや仏様(法)よりも先祖の方が中心で、本末転倒した考え方になってしまうのです。
 世間一般に、このように考える人が多い風潮というのは、江戸時代に持てはやされた儒教の影響が、いまだに根強く残っているものと考えられます。儒教は先祖を祀り、子孫を絶やさないことを大切に考えます。それと、日本で広まり、今日まで定着してきた仏教がミックスした形で、「家の宗教」という、今日の風潮を生み出しているのではないでしょうか。
 日本人の宗教オンチについて、欧米人から不審がられる話を聞きます。「貴方の宗教は何ですか」と聞かれても、はっきり答えられないというのが日本人の特徴と言われています。仏壇があるから「仏教です」「○○宗です」と、答えはしても、真相は「先祖崇拝宗」といったところでしょうか。
 信仰は本来個人々々に持たれ、その人の生涯の糧になってこそ本当の意義が発揮されます。それが先祖の祭祀専門にすり替えられてしまっている誤りに、世の人々にも早く気づいてほしいものです。

 ただし最近の世の中の傾向として、西洋の人々を模した個人主義が横行して、それがこれまでの家中心という、日本古来の習慣を脅かしつつあるように思えるのです。これも将来に向けて、真剣に考えなければならない問題だと思います。
 西洋人は早くから個々の自由を尊重する伝統がありました。そこで個人主義といっても、独善とか排他的とは意味の違う、自律性とか自己に責任を持つという意味の個人主義を培ってきました。これは良く評価されるべき美徳でありましょう。ところが現代日本に横行する個人主義というのは、どちらかと云えば利己主義的な要素が多い個人主義なのです。家庭や職場、隣近所の付き合いの上でも、昔と比べると閉鎖的で、協調性に欠ける人が多くなったと指摘されて久しい感があります。互いに潤いを感じることが少ないということでしょう。理由として考えられることは、やはり西洋文明をうわべだけ真似してきた明治以来のしわ寄せが、ゆがんだ個人主義を横行させる結果となっているのではないでしょうか。
 少子化の原因も帰するところ、適齢期の夫婦が子作り・子育をした際の束縛を避けたいという、消極的意思の表れで無ければ良いのですが。
 信仰の有るべき姿という視点に戻りますが、儒教の影響による「家の宗教」的な先祖崇拝宗でも困ります。かといって、西洋かぶれのゆがんだ個人主義からはオウム教団のような、あるいは最近の、テロに結びつくような独善的で、人の犠牲を何とも思わない宗教しか生まれてこないでしょう。
 宗祖日蓮大聖人は檀越(だんのつ)に対して、「御みやづかいを法華経とおぼしめせ」(平成一二二〇頁)という、世法と仏法が両立すべき御指南をされています。あるいは、「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽(じじゅほうらく)にあらずや」(同九九一頁)という御文にも見られますように、日常生活の中にそのまま信心を生かしていくべき御教示をされています。
 我々の人生に苦楽は付き物であります。辛い時も悲しい時も、嬉しい時も御本尊の前で妙法を唱えて、歩んでいく信心の歓びを、世の人々に広く伝える折伏を、今こそ行じていきましょう。

(平成27年9月 公開)