東日本大震災以降、人々の幸福感も変わってきたと言われています。と言うより、どのようなことをもって幸福と言えるのか、そのあたりの明確な目標なり指標のようなものが、失われてしまったのが現在の世の中ではないでしょうか。
かつては曲がりなりにも社会人として就業して、その中で家庭を築き余暇を楽しめる程度でも、ほのぼのとした幸福感があり、理想的な人生観の一つとして定着していた時代があったようですが、今はそれさえ思うに任せず、厚い壁に突き当たっている人がどれほどいるでしょう。
東日本大震災で、あっという間に肉親を失ってしまった人たち。もちろん津波にのまれて帰らざる人となった方には、死の瞬間がどれほど怖く苦しかったことか。一方で遺された方も、瞬時に肉親を失った心の痛みはたとえようも無く、その辛さを生涯忘れることはできないでしょう。
ある識者が本に書いていますが、人は必ず死を迎えなければならないが、災害や事故死、或いは急性疾患などによる突然死は、家族へ与えるダメージはとりわけ大きなものとなる。ところが不治の病でも、癌に罹った場合の死であれば、少なくとも一ヶ月の有余はあるので、その間に本人はやり残したことが出来るし、家族も看病する間に心の準備ができるから、いざという時のショックは、突然死よりずっと緩やかなものとなるという指摘です。
なるほど、これは現実に即した、合理的な捉え方なのかと思います。終末医療にしても、これまでは可能な限りこの世に生き続けさせることが使命のように考えられてきましたが、「マカロニ症候群」と言われる、管だらけの姿で最後を迎えるより、できるだけ自然なままで臨終を迎えさせる方が、人間の尊厳という観点からも、重視されるようになってきた時代です。
このように、誰しもに死は必ずやってくるという意識を、心の中に明確に持っておくことはたいへん重要で、一人ひとりが真の幸福境界を築くためにも、この意識を疎かにすることはできません。まさに日蓮大聖人が「先ず臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」(平成一四八二㌻)と御教示されていることに、一切は極まるのです。
我が臨終を意識することは、自らの行動の限界を知ることであり(無常)、また我が命の中に、無限の可能性を開くこと(常住)でもあります。その中で得られる幸福感こそが、絶対的なものとなりうるのでありましょう。
仏法では我々がなぜこうして存在するのかということについて、人間も動植物も、またそれらが拠り所とする環境世界の一切を含めて、「因縁所生(いんねんしょしょう)の法」と説いています。何らかの因と縁が仮に和合することによって生じ、その和合が解ければ滅(死)を迎えます。人間でいえば、地水火風空の五大という要素が仮に和合して生まれ、その和合が解かれて死を迎えます。ゆえに死を迎えても、再び仮和合して再生が可能という理屈が成り立ちます。
では、どういう力がはたらいて、仮和合があるのかと言えば、これはそれぞれに無始以来具える業力(ごうりき)があり、とりわけ過去世の業が因となり、父母を縁として世に生まれることになります。そういう我々の当体は、一言で言えば、「妙」としか言いようがありません。
天台の釈に「妙は不可思議に名づくるなり」(平成六六八㌻)とありますが、一体何が不可思議なのでしょう。例えてみれば法華経方便品に説かれる十如是は、如是相・如是性・如是体から始まります。これはAさんもBさんも、顔の形・性格などそれぞれ違うということで、誰一人同じ個性の人はいません。仏法ではこれを差別と表現します。AさんもBさんそれぞれに、如是力、乃至作・因・縁・果・報という、各々の用きや得られる結果、そして後に及ぼす影響なども全て相違・差別がありますが、しかし如是相から如是報までの因果のはたらき、ありようは、本末究竟(ほんまつくきょう)して等しい、つまり平等なのです。
差別の当体のままに、平等の真理を具することをもって、これを「妙」と名づけ、妙という法(真理)がある、すなわち妙法とするのです。このように我々衆生は、妙法で表現される尊い当体ですが、しかし妙法といっただけではなかなかつかみ所もないので、たとえを蓮華に借りるのです。蓮華は汚い泥水の中から、汚れのない白蓮華の花を咲かせます。我々衆生の命・心も、本来は白蓮華のように汚れがないということから、蓮華をたとえに使うのです。いわゆる妙法という蓮華が、我々のありのままの姿であり、これを普遍的真理として説いた因果倶時(ぐじ)の教えという意味で、妙法蓮華経とするのです。
我々の体を成す地水火風空の五大は、すなわち妙法蓮華経という尊い仏の当体であるということです。しかしこの法門は、御本仏大聖人が久遠元初より所持され、末法の一切衆生を成仏に導くために、南無妙法蓮華経の御本尊に建立されました。ゆえに私たちは、大聖人の顕された御本尊に向かい、南無妙法蓮華経と唱えるときに仏の当体となるのです。
幸福への指針を失った現代人ですが、より多くの方が真の幸福を築くために、御本尊の前に端座して、南無妙法蓮華経を唱える生活ができるよう、念願するものであります。