未来に伝えられる大石寺御影堂 – その歴史を探る
住職 榎木境道

 立正安国論正義顕揚七五〇年の記念事業として、大改修工事が行われてきた総本山大石寺御影堂が、恙なく昨年末に竣工し、四六会にも及ぶ慶祝記念法要が奉修されたのも、まだ記憶に新しいところです。
 御影堂は身延を離山された日興上人が、大石寺を開創された時に、御内仏様を御安置した六壷が建てられ、続いて建立されたと考えられる堂宇です。御影堂に奉安された大聖人御影は、日興上人によって身延山で造立されていたことが明らかですから、その御影を奉安するための御影堂もまた、大石寺開創の頃から建立されていたことが容易に推定されます。
 日興上人は御入滅に当たって、御堂を大聖人墓所とともに、日目上人に管領を命ぜられました(日興跡条々事)。御堂とは御影堂の略称です。
 その後の変遷は定かではありませんが、元中五(一三八八)年、以前宰相阿闍梨日郷師が大石寺を退出する時に、保田に持ち去った大聖人御影について、第六世日時上人は返還を求めています。この頃、大石寺では御影堂を造立していることが、他門の文献にあります。
 第十二世日鎮上人の大永二(一五二二)年には、本堂・総門などとともに、御影堂が新たに建立され、本寺としての格式を整えています。この時は、御影堂と本堂が並んで建てられていました(日主上人大石寺絵図)。
しかしこの頃は戦国時代で、駿河の地は今川氏の所領とはいえ、甲斐の武田、相模の北条を含めた三勢力が、覇権を競って入り乱れていました。こうした状況下、永禄十二(一五六九)年二月七日、三勢力の一角である武田信玄の軍勢により、大石寺の諸堂が焼かれています。御影堂もこの時、被災したことが考えられます。

 江戸時代になると、阿波徳島の藩主・公の夫人であるが、第十七世日精上人に深く帰依をされました。そこで日精上人が登座された年の寛永九(一六三二)年に、御影堂を建立寄進されています。この年は前年に、大石寺に大きな火災があり諸堂が焼失したので、復興を意図したものでした。
 この時建立された御影堂の建物こそは、後の修復や規模の拡大はあるものの、原形において、現在我々の見る建物と考えられます。またこの時、大石寺近辺の信徒を中心に、延べ七千二百十三人の人が、建立作業に加わった記録があります。この事も御影堂の歴史として忘れられない事実です。
 三年後の寛永十二年には、御影堂内に今ある、がえられ、同十五年には御影堂前の二天門も建立されました。二天とは、諸天の代表として大日天王・大月天王のことで、御影堂の御本尊・御影を守護する役割とされています。
延宝七(一六七九)年二月十三日、日精上人はそれまで御影堂に御安置されていたと思われる、本門戒壇の大御本尊を御宝蔵にお納め申し上げ、替わりに新たな板御本尊を造立されました。現在御影様の後ろにまします御本尊です。
 第二十二世日俊上人の御代には、御影堂への参道が、両わきの石垣の施工とともに整備されました。四(一六八七)年のことで、現在でも御影堂の参詣は、石段を上がり、二天門をくぐって進みますが、高低差のある参道は整備が必要で、しかも大がかりな工事を要したことでしょう。

次に、第二十四世日永上人の御代である元禄十二(一六九九)年には、御影堂に大修築が加えられました。この時の工事は、元禄十年に関東大地震があり、御影堂もかなり被害を受けて破損したので、修繕のための工事であったようです。翌年には落慶法要が営まれ、細草檀林所化による論議式も行われています。
 その後、御影堂をめぐる大きな動きはなく、明治年間には第五十六世日応上人が、福島県にいた宮大工・青木守高氏に調査せしめたところ、腐朽が著しいことが分かりました。日応上人は大営繕を決意され、明治三十(一八九七)年十月、営繕事務所を設置、屋根も従来のきから、銅板にき替える事業が行われました。費用も当初の見積もり一万八千円から、造作新調箇所の追加や諸物価の高騰で、最終的には三万五千円となり、日応上人は愛知・石川・京都・大阪・兵庫・福岡の各地を巡教なされ、御供養の勧募に努められました。こうして明治三十五(一九〇二)年四月、ようやく営繕が成り、落慶法要が奉修されたのです。
 平成の現在、大修復工事の行われている御影堂は、木部に伝統的なを採用するなど、江戸時代初期の建築方法を再現すべく最善の努力が重ねられました。
以上のように、大石寺御影堂は宗門発祥の時代から、御影様をご安置申し上げ、大聖人がましますごとくの礼をとって、時々の御法主上人が守護されてきた中心堂宇です。

(平成26年3月 公開)