日蓮正宗の年間一大行事である、御会式の季節を迎えています。御会式は宗祖日蓮大聖人の御命日を期して奉修されますが、意義においては、日蓮大聖人が法華経寿量品に説かれる末法の仏様として三世常住される、その御境界をお祝いする儀式です。本宗の御会式には『立正安国論』の奉読とともに、歴代上人の諫暁の書である御申状を奉読し、広布への誓いを新たにするのが習わしです。
数年前になりますが、所用で京都に出る機会があり、ちょうど一般公開していた京都御所を見学してきました。その昔、日興・日目両上人をはじめ、本宗上古の歴代上人が申状を奏し、国主諫暁された場面などを想起し思いをめぐらしました。
御所の中心は紫宸殿です。ここでは即位・朝貢・節会・元服はもとより、読経会・講経なども行われていたそうです。
大聖人が御誕生された前年に承久の変があり、執権北条義時が鎌倉より京に攻め上りました。これに対し朝廷では紫宸殿において、真言密教による十五檀の秘法を修して戦勝祈願したものの、鎌倉武士に敗れ三上皇は配流されました。大聖人はこの事実を引かれ、どんな祈りも持つ法が誤っていれば、叶うことはないと御書の各処に仰せです。
そのような大聖人の教えを承けて、門下では宗祖晩年の頃から、日興上人・日目上人により、幕府への諫暁とともに、朝廷への諫暁もたびたびなされてきました。実際諫暁の場所がどこで行われたかと言えば、第五世日行上人の時、紫宸殿の前庭白砂(しらす)の上であったということが、第九世日有上人聞書(ききがき)に見られます。日興上人・日目上人の時もおそらく同様であったのでしょう。
私は紫宸殿の前まで来た時にこのことを思い起こし、入口上部に掛けられた「紫宸殿」とある額と、その前庭に敷かれた白砂を見て、しばしの感動を覚えました。日興上人も日目上人も、そして日行上人もこの位置で、御簾(みす)に竜顔(りゅがん・天子のお顔)を隠された天皇に向かわれ、申状を朗々と捧読されたのかと。
入口階段下の位置から紫宸殿内部を臨むと、御簾の向こうに玉座がうかがえます。白砂よりやや離れてはいるものの、天皇まします両わきに居並ぶ臣下はしわぶきひとつせず、聞こえるのは立木の揺らぎと鳥のさえずりのみ、申状捧読の声は、玉座まで十分届いたであろうと想像しました。
先の日有上人の聞書とは、第五世日行上人による暦応五(一三四二)年の天奏に触れられた部分です。白砂にひざまずかれた日行上人が申状を読み上げると、紫宸殿の御簾の中に天皇は進まれ、まじまじと日行上人を御覧になり、そして少しお顔をそむけられたとあります。日行上人はどうしたものかと奏者(伝奏役)を見ると、袈裟を脱ぎなさいと言う。そこで日行上人は白砂の上に扇を広げ、その上に袈裟を置いて申状を奏したところ、天皇は真っ直ぐに向かわれ、聞いて下さったということです。竜顔をそむけられた理由については、天皇御自身は本来十善の帝王と言われますが、仏子である僧侶にあい対した時には九善の位に下がり、僧侶を十善の位に引揚げるのです。ゆえに九善の天皇が十善の僧侶を上から見下ろすには憚りがあると感じられたゆえに、袈裟を外させたと、三十一世日因上人の解説があります(取意)。
こうして紫宸殿を舞台に、宗門上古の歴代上人は天奏を生涯の大事として行じてきました。時に生命に及ぶ結末をも覚悟しなくてはならない、不自惜身命の実践でした。
ところで大石寺および京都要法寺には「紫宸殿の御本尊」と称されれる、大聖人御真筆の御本尊が伝えられています。
要法寺では同山二十一代円智院日性師が仙洞御所(上皇の御所)で後陽成院へ外書(仏教以外の書)を講じた時に奉安したという、大聖人御本尊を紫宸殿の御本尊と称しています。大石寺では、弘安三年三月日の御本尊について、紫宸殿の御本尊と称されています。『富士大石寺明細誌』には、
「伝に云く広布の時至りて鎮護国家の為に禁裏の叡覧に入れ奉るべき本尊なり云々」
とあります。天皇帰依の折りに紫宸殿に奉掲され、天皇が直拝されるべき御本尊との意味です。なお六十七世日顕上人は、本来は大聖人より日興上人へ師資伝授されるという意味で「師資伝の御本尊」であったのが、その後転化して「紫宸殿の御本尊」と称されるようになったと示されています。
こうした言い伝えも、何れは天皇の帰依を実現したいという、本宗上古の人々の悲願があった証しでしょう。
「代々を経て 思いをつむぞ冨士の根の
煙よおよべ雲の上まで」
第三祖日目上人が最後の天奏途上、美濃国垂井の宿で遺された辞世の句で、ここにも富士山麓の三大秘法が、雲上人(朝廷紫宸殿)に及ぶことを悲願とした御意が拝せられます。
宗門上代の歴史と紫宸殿には、語り尽くせない様々な結びつきがあるようです。